参審の制度の風土 顧問 小暮 得雄

第一回模擬裁判の様子
 ヨーロッパの街を歩いていると右手に剣をかざし、左手に秤を持った正義の女神像にであることが多い。近くには裁判所があって、ふと立ち寄れば、中では大勢の傍聴人を前に“国民の名において”判決が言い渡されている。こんな光景を見るとき、陪審制や参審制を育んだ風土とはどのようなものかを実感でできよう。一方、我が国では“お上の裁判”という意識が強いせいか、裁判所は、どうやら一般市民にとって厳めしく、近寄りがたい存在のようだ。大学で模擬裁判を開く意味の一つも、多分、そんな司法と市民との距離を少しでも縮めるところに求められるはないだろうか?  昨年につづき、大学祭の一環とし模擬裁判を立ち上げることができた。言うまでもなく、裁判には、民事裁判や行政裁判、あるいは国際軍事裁判など様々な種類があるが、テレビドラマの影響だろうか、学生諸君は刑事裁判が好みらしく、今年も刑事裁判が催されることになった。脚本を一瞥すると、かなり“猟奇的”な連続殺人事件が扱われるらしい。オーソドックスな模擬裁の素材としては、ややおどおどろしい印象を否めないが、アメリカあたりにも類例があることで、囲碁や将棋の用語を借りれば“それも一局”といってよいだろう。  この種の事件はその異常性のゆえにおのずから犯人の責任能力が問題となる、なぜ兇悪な事件を犯した加害者の処罰に、是非善悪の判断能力ないし制御能力が必要なのだろうか?長年の経験に照らすと、その辺の法理は、世間の“常識”にそぐわない面があるらしく、その意味で。責任能力や精神鑑定の問題は、刑事裁判でも最も難しい問題領域いえよう。鑑定意見が岐れたばあい、裁判官と市民の裁判員がどのような判断をくだすのか、学生の諸君の鋭い切り込みを楽しみにしている。  今年は準備期間も短く昨年の主役たちの多くが大学院に進むなど、何かと不如意な事情の下で学生諸君は精一杯健闘した。継続は力なり。この催しがご来場の皆さまにとって、あらためて司法とはなにかを考えるよすがとなるとともに、学生諸君にとっても青春のよき思い出の一頁として残ることを期待したい。
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